川島武宜『日本社会の家族的構成』

 丸山と大塚は読んでいるのに、実を言うと、川島は読んだことがなかった。でも、ちょっと気になってきたので、とりあえず手近なこれを読んでみる。まあいわゆる近代主義的な調子がハナにつくといえばハナにつくのだが、話としてはよくわかります。
 戦前の民法のベースになっていたのは武士階級に由来する封建的な家族制度であり、「直接生産者たる農民や漁民やまた都市の小市民の家族の制度は、これとはことなる別の形態をもっている」(4頁)。
 「封建武士的=儒教的な」家族制度の「社会関係の基本原理は、「権威」と「恭順」とである」(6頁)。このとき服従する側は、権威にたいしていわばすすんで服従しているわけだが、なぜ服従するのかと言えば相手の絶対的権威を認めてしまっているからであり、相手に逆らうということそれ自体を考えることができない。そのような意味において、それは、「心からの服従でありながら」、「自らの内面的命令に媒介された自主的服従ではない」、「人の精神を「外から」規定する権威への服従である」(8頁)。「そこでは、服従者は自らを独立の価値ある主体として意識することはできない。かれの行為はつねに他者によって規定され、かれは自ら判断し自ら行動することはありえないし、またその能力もない」(11頁)
 そして、この関係は「恩」と「孝」という道徳原理によって語られる。「恩恵者は権利のみをもち、受恩者は義務のみをおい、しかもその義務は無限の大きさをもち、恵みに体操する忠誠によって支えられねばならない」(116頁)。
 他方、民衆の家族生活の構造は、「絶対的な権威と恭順ではなく、もっと「協同的な」雰囲気が支配する。各人がそれぞれに固有の生産的労働を分担することに対応して、各人は家族内で固有の地位をもち、したがって戸主権とともに、父権、夫権、主婦権等が分化して成り立っている」(12頁)。だが、こうした家族の「秩序」も一つの権威をなしており、「家族秩序は、人の自主的精神によって媒介されるのではなく、直接に「外から」人を拘束するのである」(13頁)。ただし、「この権威はここでははなはだ人情的情緒的性質をおび、だから権力が権力としてあらわれない」(13頁)。「何びともつねに、協同体的な秩序の雰囲気につつまれ、そこに支配する必然性の客体として、自らを意識しなければならない」(15頁)。
 というわけで分析は同じところに行き着く。「ここでもまた個人的責任という意識は生まれるはずがない。すべての意識と行動との根拠であり原因であるのは雰囲気である。何びとにも責任感ははく、責任があるのはただ雰囲気である。またここでは近代的な人格の相互尊重も存在しない。そこには専制支配はないが、その関係は自主的な個人によって媒介されているのではなく、むしろ自主的な個人を不可能にするところの全体的雰囲気のなかにおいてのみ個人は存在しているからである」(16頁)。

日本社会の家族的構成 (岩波現代文庫―学術)

日本社会の家族的構成 (岩波現代文庫―学術)