守田志郎『日本の村−小さい部落−』

  ここまで読まなくてもいいかというのもあるのだが、現在進行形のお仕事のためのお勉強に読む。この本、かつてはかなり知られた本だったらしい。ボクは思想の科学研究会の『共同研究集団』で知った。守田の一連の著作は、農文協から再刊されており、もとは朝日選書の一冊だったこの本も農文協版から鶴見俊輔の書評も収録して再刊されている。平易な文章だがロジックが表に出てこないので必ずしも読みやすいとはいえないが、話は面白い。もっともいま読んでどうするというのはある。かつては、文革の影響を受けて反近代/超近代話のなかで参照されたんじゃないだろうか?
 守田によれば(おそらくはかつての)日本の農家はすべて小農なのであり、そして、小農制の原理とは、生産と生活が一体であるところにあるという。

農耕の大きさにかかわりなく、私は農家はすべて小農だと言うのである(141頁)。
それは、小農制においては、生産と生活は一体であるという原理である(155頁)。
部落はたんなる家の集まりではない。耕地をふくめてそっくりと包み込んだ生活と生産の単位なのである(152頁)。

 これはおそらくこういうことだ。小農とは生活を維持していくのにぎりぎりの規模で農業を営む人々をさすといってよい。ここではほとんと生産物余剰が生まれる余地がない。だから、生産するということは、即、食っていくこと、生きていくこと、つまりは生活につながる。もちろん、小農が維持していける人口の規模にはかぎりがある。土地の少ない農民の次男や三男は農家を継げない。つまり、

部落は、その構成員である農家の数を調整し、その結果として人口も調整する(161頁)
親いまだ健在なるうちに世代交替が行われる。---。この交替は、生活したがって生産を持続させるために行われるのであって、資産を分配するために行われるものではない(107頁)。
部落は自己を維持するために余計ものを外に出すのである(162頁)。

 ここではわれわれが考えるようなかたちでの所有は意味をなさない。つまり、それは何とでも交換可能な財ではない。なぜなら、誰かの手から誰かの手に土地が移転したとしても、結局は、それでもって誰かが生活していくことには変わりはないのであって、じっさいにも、土地の所有権を手放した農民は、それでも小作農としてその土地で耕作を続けることがしばしばなのだという。いずれにせよ土地所有は生活するということを離れては考えられない。だから、

田は、農家のものであると同時に部落のものなのである(209頁)。

 ところで、部落には抱え込むことのできる農家にかぎりがある一方、その構成員はもともと小農ばかりだから、そのあいだでの土地や水利権の移転は、農家同士のトレード・オフの関係を引き起こす。だが、農家同士は、半永久的に顔をつきあわせていくご近所であり、しかも、「部落では禍いというものは等しくかかってくる」(114頁)。

部落というものが波をおもてに立てないようになっているのは、その慎み深さからでもあろうが、人々が、今日も明日も、そして将来ずっとその部落のなかで同じ顔ぶれで生産と生活を続けていくようになっているからなのだろ思う(73頁)。
部落を貫く「我慢の秩序」は、家々の部落構成員としての生活と生産を守っているということなのである(127頁)。
部落が約束するものは、最大多数の最大幸福ではなく、全員の中位の幸福なのである(126頁)。

 そこで、一見すると親しげにしていても一枚皮を剥がせば---といういわゆるムラの論理というものがでてくるわけですな。それぞれの利害関係は対立しあう一方で、一緒に生きていかなければならないわけだから、決定的な対立に入るわけにもいかない。以下は私見だが、こうした関係では善悪が一定の道徳原理から引き出されることはないだろう。なぜなら、一位にあるのはムラ社会での調和した利益配分なのであり、その観点から見るとき、たとえ同じような行状であっても状況次第では異なった評価を受けることがありうるからだ。そして、こうしたムラの秩序から逸脱していくことが私事として非難を受けることになるだろう。といっても、公私を峻別する境界があるわけではなく、私事は私事して非難の対象になるという意味において、それを純粋な私的領域に囲い込むことができない。なんだか丸山眞男の話に似てきますな。

日本の村―小さい部落 (人間選書)

日本の村―小さい部落 (人間選書)

*気になる評を発見。
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