水俣を書くのに、私は解剖をみせていただきましたから

 80頁の石牟礼発言。伊藤比呂美が石牟礼さんに死にまつわる経験を尋ねていき、最後はご本人の死についてまで尋ねるという考えようによってはスゴイ本。でも、石牟礼さんなら平気で答えそうだな、という気も。この歌、ボクも好き。伊藤比呂美さんて熊本に縁のある方だったんですね。

儚き此の世を過すとて、海山稼ぐとせし程に、万の仏に疎まれて、後生我が身を如何にせん

 それから、昨日(眉につばをつけつつ面白く)読んだもう一冊の本にある中沢-網野的な世界観と石牟礼さんの世界観をつなげてみたくなるのは単なる私の錯覚なのか?

石牟礼さんが描く世界というのは、「死」というのがやっぱりあるんだけれど、死よりももっと、生きているものがいっぱいあって、あそこにもここにも、ちっちゃいものもいっぱい生きていて、その裏っ返しに全部死が影のようにくっついいる(111頁)

死を想う―われらも終には仏なり (平凡社新書)

死を想う―われらも終には仏なり (平凡社新書)

 これを国家的な生権力の〈外側〉にある生と考えちゃ駄目かしら*1。そうするとこんな記述に目が向く。

網野善彦が『蒙古襲来』に展開して歴史記述の出発点にすえた「民衆」は、ひとつの概念としてそれとは違う構造をしている。この「民衆」はアジア的生産様式の向こう側に広がる「人類の原始」にまで根を下ろしたものとして、国家の意識と結合した歴史記述そのものの外に向かって、自分の「底」を抜いてしまった概念なのである(64頁)。

僕の叔父さん 網野善彦 (集英社新書)

僕の叔父さん 網野善彦 (集英社新書)

 それは自由だがよるべなき民だ。そして、この民衆ってきっと国家を突き抜けたところで後生を願うよね。石牟礼さんは「生きている間は、どうも世間とうまくいかない」(166頁)といいつつ、その一方で、後生は「あるんじゃないかという気がする」。だって「皆の願いがあるから」(152頁)と語るのだ。
 網野つながりでいけば、『entaxi』の佐藤優×本郷和一×福田和也北畠親房をめぐる対談も面白かった。そういえば学生の頃、賀名生に行ったことがあったっけ。

*1:「ヒロム兄やん」が強烈なのはそうした生を体現しているように見えるからだ。