西村光子『女たちの共同体』

 通常業務も今日で一応終わり、というわけで、これまで気になりながらも読めずにいた本に手をつけながら、やはり手つかずにきたお仕事に手を染めねばというわけで、とりあえずこれを手に取る。ちょっととっちらかった印象もあるが、こういうことを取り上げて欲しいなと思っていたことが一通り出てくる面白い本だった。また、引用されるリブたちの文体が印象的。
 リブは新左翼がその革命的日常のなかでも相変わらず男女の日常的な性別役割を温存していたことを爼上にのせた。

なぜ男たちは日本の体制を変革すると言いながら、日常生活を支えている男-女関係の恩恵にはすっぽりつかったままでいるのか(34頁)。

 だから、リブは女が組み込まれている日常生活そのものを問題にしようとする。たとえば、田中美津は「権力の総体性は日常性として現出する」(83頁)と言う。それはフーコーの権力論を思わせもするのだが、どこか疎外論的な響きがある。

リブが根拠としたものは、あくまで〈部分として生かされることを拒否する、全体性をもって生きたい〉という70年代当時の女たちの強い願いであった。ここから明らかになってくるのは、当時の女たちは、自らの意思で子を産み、育てることが女の全体性を生きることだと考えていたということである(51頁)。

 このとき、日常生活を射程に据えるために、リブが問題にしたのはなによりも女の内面であり、内面から日常生活を組み換えていく場としてコレクティブ(共同体)が構想されたようだ。

リブは自分の内面に食い込んだ”女らしさ”イメージをも見据えたいと思ったのだ。しかし、男と向かい合うと、それが見えなくなる(20頁)。
リブは「個」から出発し「個」に戻って社会や日常を考えたが、「個」として表出するものが社会から遊離して存在するのではなく、社会基盤としっかり結びついており、その社会基盤は人びとの働きかけで変えていくことができると理解していた。リブの活動家たちにとって、「自分らしく生きる」ということは、人と人との関係をどう作っていくかということであり、自分の帰属する集団をいかに形成するかという問題であった。彼女たちは、権力を生み出さない人間関係-共同性を志向して自らの手でコレクティブをつくり、五年もの間、活動を続けたのである(23頁)。

 だが、日常生活を女の内面から告発して行こうとすると、それはしばしば「性急な倫理主義」に向かいがちである。たとえば、リブでも連赤同様部分的に集団意識高揚法がとられていたという。そこから帰結するのが「日常の戦場化」、「日常の非日常化」だ。新左翼への批判から生まれてきたリブが、ここでは連合赤軍ときわめて近いポジションに立ってしまうことになる。

リブは自らを生み出した新左翼に執拗な批判を行っているが、それは自分のなかに同じ幻想を抱えていたからであり、それこそが「革命的非日常信仰」であった(85頁)。

 もっとも、リブにはそれを相対化する視点がなかったわけではない。田中美津はミニスカートをはいて山岳ベースへ永田洋子を訪ねたのだという。その田中は永田をこんな風に見ていたらしい。

男たちのすなる革命戦士として参加するためには、イヤリングは許されない。しかし自分自身イヤリングをつけたい女だった。イヤリングをつけた女を永田は率先して排除しなければならなかったのではないか。イヤリングをつけた女は、もう一人の自分だったからね(79頁)。

 だが、そんなリブのコレクティブを「ひっついたご飯粒」と形容して田中美津はメキシコへ行く。

日本の女の生き方に価値変換を迫り実際に多大な影響を与えたウーマンリブのコレクティブが消滅期に問題として突きだしたものは、「母」と「父」なるものの存在だった(120頁)。

女(リブ)たちの共同体(コレクティブ)―七〇年代ウーマンリブを再読する

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