レッド・ツェッペリンはポストフォーディズムである

毛利嘉孝『ポピュラー音楽と資本主義』

 前著が面白かったのでこれも読んでみる。教科書として書かれたということだが、なるほどと思わせるところも結構あり。特にJポップを取り上げたこのあたりの記述なんかは面白かった。Jポップの受容は親密圏の問題として考えればよいというのは納得。いわば親密圏を構成するコミュニケーションのツールと化しているわけですな。
 ボクが音楽を取り巻く状況が変わってしまったなというのをまず最初に意識したのは、たぶん有名アーティストが新曲を出すとテレビCMを打つようになったことに気づいたときだったんじゃないかと思う。それは、CMを打つだけの広告費用を音楽にかけられるようになったということでもあるし、またCMを介して聴き手を開拓できるという状況が登場したということもある。いつのまにかヒット曲はタイアップだらけになったしね。
 それから、とある通いつけの中古CD屋の品揃えががくんと変わってしまって、その後、あまり行かなくなってしまったというのもあるな。ブックオフなんかもそうだけど、いつのまにか店に並ぶ大半のCDがちょっと前の有名ヒット曲ばかりになってしまい、棚をあさっても楽しくなくなってしまったのだ。それを見ながら、音楽が次々と消費されていく消耗品と化してしまったことを実感したものだ。
 いまやわれわれにとって音楽を聴くという経験は、新しいテクノロジーの登場、なによりもCDの登場と結びついて、きわめて日常化した事柄になっている。それは、音楽の新しい享受の仕方をもたらした。「Jポップの登場と普及は、音楽を取り巻くライフスタイルの変化と聴取者像の変化と対応したものでした」(159頁)。たとえば、この本では、それをよく示すものとしてミニコンポの登場をあげている*1。そして、

こうした新しい音楽は、音楽を聴くこととカラオケを歌うこととのあいだの境界も曖昧にします。その消費は、親しい友人とのあいだ、社会学でいうところの「親密圏」で行われるようになります(180頁)。

ちょうど血液型がプライヴェートな事柄に属しながらもあまり害がなく、しばしば互いを知るお手軽なトピックになるように、Jポップも各自が個性を演出しながら交流するためのツールになっているというわけだ。ただし、

Jポップに代表される「J」なるものの消費があまりにも早いために、文化生産物によって形成される親密圏がきわめて短いスパンの世代にしか共有されないということです(180頁)。

これは学生に好きな音楽を聴いてみるとよくわかる。ホントにおそろしいくらいばらけてしまうのだ。しかも、好きだというわりには、意外と自分が聴いているタイプの音楽の知識すらなかったりして、マニアックな聴き方をしているのはどうも少数派だ。

Jポップは労働力の個性やコミュニケーション能力を要求する一方で、マニア的な知識に期待をしません。むしろ音楽の知識は限りなくカタログ化、データベース化されていきます。---。なぜなら、音楽の嗜好は趣味というよりはその人の個性になってしまっているからです(181-2頁)。

自分の好きな音楽がよい音楽。それは人それぞれ。これじゃあ、なかなか批評は成立しないよね。

こんにちの個性には、ほんものとにせものの区分はありません。それは資本主義の市場の限定的な選択肢から選ばれたものかもしれませんが、それを選ぶ以外の方法はなく、その個性の下に、あるいは外部に隠された内面は存在しないのです。個性は無限に多様化する一方で、尊重されるべきものになっているので、いちいちぶつかったりはしません。したがって、その個性は衝突のない、親密なネットワークを形成します。けれども、その個性を担うヴィークルとしての個々人はまさにこの特徴のために交換可能なものへと変容させられてしまうのです(182頁)。

 ほかにもパンクやテクノのポップ戦略、ブラック・ミュージックの変遷が検討に付される。このブラック・ミュージックの分析なんかも秀逸。アメリカの黒人が人種差別を代表しなくなった現在(ライスとエミネムを想起せよ)、ブラック・ミュージックを介して人種と資本主義の関係を語ることが難しくなっている、と。そして、こうした一連の議論が見すえている場所は前著『政治=文化』がみすえていた場所につながるものだといってよいだろう。「はっきりしているのは、ポピュラー音楽はいつまでも聴かれ続けられるだろうということ、そして、私たちは結局大衆的なものを考えざるをえないということです」(209頁)。

ポピュラー音楽と資本主義

ポピュラー音楽と資本主義

*1:ただし、ミニコンポについてはこの記述に納得。http://d.hatena.ne.jp/smasuda/20071216