フレデリック・ワイズマン『少年裁判所』(1973)

 やると分かっているのに忙しいからと一本も見ないのは口惜しいので、仕事のあとに見に行ってみた。@愛知芸術文化センター。とはいえ、1本が2〜3時間はあるワイズマン作品を見るには体力がいりますよ。もらったパンフには北小路隆志が寄稿していて、「ワイズマンの作品は組織の映画なのだ」という主旨の文章を書いていた。組織の映画なのだというのはなるほどという感じ。
 この日見た『少年裁判所』の場合なら、まずカメラがこの施設に入り、最後に出てくるまで、すべて映し出されるのはこの施設の内部での活動や出来事だ。そして、組織では複数の仕事が並行して進められるように、この施設の内部で行われている活動が映像の断片としていくつもいくつも並べられていく。他方で、組織には何らかのヒエラルキーがあるわけだが、それが映画のなかでも階梯として積み重ねられていく。この作品の場合だったら、最初は少年の取り調べのシーンがいくつも並べられていくのだが、次には裁判のシーンが繰り返されるといった具合に。
 この裁判を担当する判事が、ちょっとハンフリー・ボガードに似た人で、そのたたずまいも官僚とは正反対といった雰囲気をただよわせながら、審理をつうじて少年たちにとって一番よい解決策が何かを模索していく。その誠実さにとても好感が持てるのだが、少年に尋問するシーンをはじめこんなシーンを、しかもカメラの存在を感じさせずによく撮れたなと思わずにはいられない。
 とはいえ、たとえそうした人物であっても、カメラがこの判事を裁判の場面を超えて舞台裏へと追いかけていくことはなく、ある裁判のシークエンスのあとは同じ部屋での別の裁判のシークエンスが続く。 これもワイズマンの映画が組織の映画なのだと考えるとよく分かる。組織のなかで行われるのは組織が担う一連の活動なのであり、その人物が活動を離れたところで何を考え、何をしているかを見ていったところで、それで組織を代表させることはできない。もちろん、組織を担う人物の人となりを中心に組織を描いていくというやり方はあるし、その手の手法はよく使われるわけだが、ワイズマンはそれを拒絶しているのだといってよいだろう。
 判事はそうしていくつもの裁判をこなしていくのであり、それが判事の仕事なのであり、仕事を離れた判事はもはや判事ではない。たとえ、その人物の人となりが気にかかったとしても、それは組織とは直接にはかかわりがない。とはいえ、組織の活動のなかでその人らしさのようなものが現れてこないかといえば、すでに確認したように、決してそのようなことはなく、繰り返される組織の活動のなかでそれを担う人それぞれの「らしさ」も垣間見えてくる。だからこそ、組織の背後に遡ってその人物を見てみたくもなるわけだ。
 そんなわけで、組織理論を念頭におきながらワイズマンの作品を見ていくとたしかによくわかるところがある。ワイズマンは組織の構成を、それは何よりも継続する活動として取り出されてくるわけだが、手法的にそのまま映像として捉えようとしているみたいだ。だから、ナレーションも一切は入らない。聞こえてくるのは現場の人のやりとりだけ。そういえば、北小路はそんなワイズマンのやり方をオートポイエーシス・システムになぞらえていた。
 もちろん、組織には様々な活動をする組織があり、それぞれの組織はそれが組織であるという意味では似通っていても、異なるタイプの活動を担っている。そこには自ずと差異がある。だとすれば、その差異はおそらくワイズマンの作品構成の差異として現れてくるだろう。ワイズマンの映画作品はワイズマンが取り出してくる対象とよく似ている。そんな風に見ていけば、ワイズマンの作品を、それが捉える映像に驚く以上に、楽しむことができるように思われる。というわけでワイズマンを見る楽しみが一つ増えたわけだが、問題は、次、いつワイズマン作品を見るというチャンスに遭遇できるかなだな。
 とりあえず2本はDVDで見られますな。

フレデリック・ワイズマン

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