『いのちの食べ方』

 大量生産されているわれわれの食い物が機械化された工程に組み込まれていることは、なんとなく分かっているわけだが、それが実際にどのようなものかはよく知らなかったりする。これはそれをとらえたドキュメンタリー*1。時節柄からいってもタイムリー。映像には何の説明もなく、その映像も基本的に真っ正面から撮られている。だが、事態を直視するようなその視線の手元に決してわれわれが立つことはない。そんな映像が淡々と繋がれていくとき、そこで描き出される世界はまるで別世界のようだ。
 この映画が映し出す実態はしばしば直視できないものみたいに形容されて語られがちだし、ある意味ではまさにそうなのだが、ボクが見ていて感じたのは何よりも滑稽さだった。『モダン・タイムス』以来と言ってよいと思うが、われわれは機械の作動のなかに組み込まれた人間の姿に滑稽さを覚えることを知っている。それは『トムとジェリー』みたいなアニメで、機械に巻きこまれたキャラクターがペッチャンコになったあとまた元に戻るといったシーンにも受け継がれているように思う。機械が刻む残酷なリズムに巻き込まれていく姿ははたで見ているとどこかおかしい。
 この映画でも、たとえば、大砲みたいな機械からつぎつぎヒヨコが打ち出されてきたり、機械の動きにあわせてリズミカルにキャベツを取り入れる人の姿とか、あるいは雄牛を雌牛にとびつかせて精子をだまし取ってしまうシーンとか、それは不条理な世界なのだが、なぜかユーモラスで思わず笑いがこみ上げてくる。それこそ、アニメの世界が再現されているような感じで見てしまっているのだ。
 たしかに、牛や豚が「工場」で捌かれるシーンなどは、結構えぐいわけだが、でも、このえぐさは生き物を殺すかぎりつきまとうもので、工程が機械化されていることと必然的に結びつくものじゃないだろう。むしろ、事態は逆で、作業が機械化された工程に組み込まれると、なぜか捌かれている牛や豚がしだいにリアルな牛や豚じゃないみたいに感じられてくる。だって、淡々と同じ作業を繰り返すだけ。ところが、終わったあとはエプロンから機械まで、念入りに消毒をするのだ。むしろ、この映画のいちばんの生々しさは最後のあのシーンにあったように思う。
 淡々としているのは、動物を組み込んでいる機械ばかりではない。そこにいる人たちも、仕事だから当たり前といえば当たり前だが、きわめて淡々としている。豚は正面から撮られてもカメラを気にしたりはしないわけだが、人間がカメラを気にしていないのはなんだか不思議。どうやって撮ったんだろう。そんななか平気で農薬をぶっかけたりしている。ふだんのわれわれにこの工程が見えないように、この工程の内部にある人たちもその外側が見えない(あるいは、見ないようにしている)みたい*2。でも、途中、休憩時間に食事するおばさんの姿は(内と外とが交わるところに相当するわけだが)なんだかいかにもまずそうだったけれど。
 名古屋シネマテークにて。http://www.espace-sarou.co.jp/inochi/

*1:他にもフレデリック・ワイズマンの『肉』みたいな作品もありますが。とか書いたあとから分かったことには、今年の愛知芸術文化センターのアートフィルム・フェスティヴァルは、なんとフレデリック・ワイズマン特集ではないか。http://www.aac.pref.aichi.jp/frame.html?bunjyo/jishyu/2007/aff/index.html

*2:とか書くと辺見庸の『もの食う人びと』を思い出すのだが。

もの食う人びと (角川文庫)

もの食う人びと (角川文庫)