アーザル・ナフィーシー「テヘランでロリータを読む」

 「ウプシランバ!」。正月に読もうと思って買った本を今頃読んでいる(こんなのばっか)。職業上はよろしくないのだろうけれど、この夏読んでいちばん面白かった本はこれになるかもしれない。面白かったという物言いは、この本の中身につり合わないと言われそうだが、ちょっと弁解しておけば、ボクにとって面白いというのは、funではなく、interestingだということ。
 ナフィーシーが小説を愛し、体制を撃つその根っこの部分にあるのは他者への想像力だ。

「ハンバートが悪人なのは、他人と他人の人生への好奇心を欠いているからだと私は言った」(75頁)。
「共感の欠如こそが現体制の中心的な罪であり、他の罪はすべてそこから生じたものだと私は思う」(310頁)。

ここでいう好奇心とは、誰ぞのプライヴァシーを暴き立てて紋切り型へとはめ込むことではない。それこそがあらかじめ用意された枠組みへと他者を誘いこむ想像力を欠いた行為に他ならないだろう。悪とは想像力の欠如のことなのである。アーレント風にそれを「凡庸な悪」といってもよいかもしれない。
とはいえ、他者に近づく手掛かりはどこまでいっても言葉しかなく、われわれにできるのはただそれを聴き取ることだ。ナフィーシーは、優れた小説にはすべての作中人物に発言の場を与える自由で民主的な空間があり、「人生のはかなさに対する生の肯定が、本質的な抵抗がある」という*1

「小説は寓意ではありません。授業時間が終わりに近づくと私は言った。それはもうひとつの世界の官能的な体験なのです。その世界に入りこまなければ、登場人物とともに固唾をのんで、彼らの運命に巻きこまれなければ、感情移入はできません。感情移入こそが小説の本質なのです。小説を読むということは、その体験を深く吸い込むことです。さあ息を吸って。それを忘れないで」(156頁)。

 革命が進行中のイランにあって、フィッツジェラルドの『ギャッツビー』をあえてクラスで裁判にかけ、オースティンの『高慢と偏見』のために学生にダンスを踊らせる。あるいは、戦時下にカットだらけのタルコフスキーを見る。それは、抑圧された体制にあっても、想像力が自由へとつながる回路はどこにでも見出せることをおしえてくれる。

「悪が個人的なものになり、日常生活の一部になると、悪への抵抗の仕方もまた個人的なものになる。魂が生きのびる道はあるのか、というのが何よりも重要な問いにある。その答えは愛と想像力にある」(433頁)。
「個人的なことは政治的だといわれる。もちろん、そんなことはない。政治的権利を求める闘いの核にあるのは、自分を守りたい、政治的なものが個人の生活に介入してくるのを防ぎたいという強い願いである。個人的なものと政治的なものは相互に依存しているが、同一ではない。想像力の領域が両者のあいだに橋を架け、絶えず一方を他方の観点からつくりかえる」(373頁)。

 言われているのは、ある意味、あまりに単純なことであり、しかも、われわれの日常は、小説を読むこと自体が危険な行為でありうる世界を生きるのとはわけが違うのだが、それがふと重なってくるような気がする。というのも、いくら政治的(あるいは経済的)な自由を手にしていたところで、われわれ自身の方が自由でなければ、その政治的自由は決して行使されることがないからだ。

テヘランでロリータを読む

テヘランでロリータを読む

*1:この一節を読みながら、ふと映画「善き人のためのソナタ」を思い出した。そういえば、あの話でも主人公の生を肯定するのは小説だった。