地点「かもめ」(びわ湖ホール)

 会場入りしてみれば、大ホールでやるといいつつも、舞台裏を客席にして観客席の方に向かって芝居を見るというスタイル。舞台は、足場を組んで板をわたし、波止場みたいな感じになっている。つまり、ふつうなら舞台の長方形の長い辺が観客席に平行するはずなのに、短い辺が客席に平行している。しかも、舞台のそではなく、背景もない。そでに出る代わりに、観客席の反対側へ行くという寸法。実際、トレープレフの母親アルカージナやその愛人の作家トリゴーリン、おじのソーリンなんかは、前から見れば白、後ろから見れば黒という衣装を着ていて、後ろ向けになれば退場したことになるというわけ。
 背景もなく、舞台が縦長になっていると否応なく浮き上がってくるのは役者たちの立ち姿だ。実際、演技も演技というほどのものはあまりなく、むしろ、その立ち姿を見せているようなところがあった。マーシャは舞台の真ん中手前(舞台上の舞台の後方)同じ場所で立ちっぱなしだし(彼女は周囲で何が起こってもそのままなのだ)、ニーナは舞台の手前の端ギリギリに立って、トレープレフの脚本を演じてみせる(それが示すのは精神の危うさ?)。そして、舞台の手前と舞台の後方のあいだの舞台としてはいささか長すぎる距離は、決して田舎から離れないトレープレフと、都会で暮らす母親や作家、田舎を離れるニーナとの距離を明らかにするだろう。しかも、トレープレフは最初この舞台の下、パイプイスで埋め尽くされたなかからあらわれてくる。登場人物が置かれている状況それぞれは、役者の演技以上に舞台上で占めるその立ち位置が引き出す存在感から把握できるようになっているみたいだ。
 せりふ回しにしても、一聴すると棒読みのようでいながら、「読み上げ」の速さを変えたり、人名を口にするときなどはちょっと独特の区切りを入れたりするので、不思議なリズム感があり、それを聞いているのが心地よく、またそこから人物の感情も感じられてくる。とりわけ、ニーナを演じた女優はホントに自由にセリフと操っているという感じだった。
 そして、丁度トクヴィルがらみの本を読んでいたせいもあろうが、ボクがこの芝居を見ながら感じていたのは、他人と比べられながら生きていく世界(都会)をめぐる苦悩だった。いや、面白かった。

かもめ・ワーニャ伯父さん (新潮文庫)

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トクヴィル 平等と不平等の理論家 (講談社選書メチエ)

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