「血の婚礼」

 今日は映画を見に行く代わりに、名古屋市民会館で芝居を見てきた。ガルシア・ロルカ原作の『血の婚礼』、白井晃の演出である。白井晃が演出する舞台を見るのは初めてというわけで楽しみにしていた。で、始まってすぐにひきこまれた。まず、音楽がいい。担当の渡辺香津美も舞台にあがってギターを弾くのだが、生で聞かせる音がとてもよかった。また、舞台は後方を少し高くしてあって、前と後ろで並行して出来事が起こるようになっており、ときに現実とイメージや記憶が錯綜する。この進行がなかなか見せる。主役の森山未来もフラメンコまで挑戦して頑張ってるし、というわけで、前半はかなり面白く見ることができた。でも、後半になっていささか退屈してしまった。
 ちょっと退屈しながら思い出していたのは、しばらく前に見たドキュメンタリーのことだった。某国営放送で「激流中国」というシリーズが放映されているのだが、その初回は中国の格差問題を扱ったものだった。中国が深刻な農村問題を抱えていることはしばしば伝えられているが、このドキュメンタリーの半分は出稼ぎで都会に出てきた農民を追いかけたもの。いくら頑張って働いても、子どもの学費や医療費すら満足に稼げない彼らの姿と、コネで商機をつかんではボロ儲けをしているエリートたちとのあまりの落差に愕然とする一方、そこから浮かび上がってくる農民たちの「血の濃さ」とでも言うべきものに惹かれた。たとえば、娘の学費を稼ごうと出稼ぎにでたのだが、稼ぎが足りず(こちらも出稼ぎにでている)息子の嫁にまで出稼ぎを頼んでと、娘の将来を思う父と、それに応えようと一生懸命勉強する娘(だが、田舎では優等生でも、都会のエリートの子どもたちのあいだの入ればどれほどのものなのか?)みたいな、いまのわれわれからすればあまりにべたな話、それが本当に繰り広げられている。正月休みに家に戻って満足気に娘の成績を知る父とその父を再び見送る娘。そのあふれ出すような濃い情念を見ながら、自分たちがそこからどれほと遠くへ来てしまったのかを感じずにはいられなかった。
 この「血の婚礼」もある意味では「ロミオとジュリエット」顔負けのきわめてベタな話だ。自分たちの生まれついた土地と血、それにしばられ自由に生きられない男女の姿。花嫁とレオナルドには結ばれない過去があり、その花嫁を略奪するレオナルドと花婿は家が仇同士で、決闘する運命から逃れられない。しかも、花婿の母は寡婦だ。だから、男たちは死ぬ運命にあり花嫁だけが生き残るだろう。もっとも、そんな原作を知らなくとも結末はある程度予想できる。なにせ寡婦である花婿の母は、ことある毎に喪った夫ともう一人の息子のことばかりを語り、しかも、新婚のパーティでは死神とおぼしき黒い男ばかりが踊って皆の運命を暗示する。それをみんなで祝っているのだ!
 そうした「血の濃さ」「情念の濃さ」は結末に向かうほどますます深まってくるはずなのだが、話が収斂すればするほど舞台からそうした濃さを感じとることが私にはできなくなってきた。また、この演出では舞台設定は原作どおりのアンダルシアなのだが、だんだんとそうした忠実さが違和感を生み出してくる。われわれが現在そうした濃さから遠く隔たったところまで来てしまっているのだとすれば、この濃さをそのまま再現しようとする演出はいったい何を意味するのだろうか?それがよくわからなくなってきたのだ。
 もっとも、演出もどこかそうした濃さを回避し、それを女たちにふり向けているようなところがある。ベタではあるがそれだけ濃い情念を描き出すことができるはずの、レオナルドと花嫁が抜け出す場面も、レオナルドと花婿が決闘する場面も、あとから言及されるだけで直接演じられることはない。また、そうした情念の濃さを描き出すにはフラメンコも格好なのに、森山は後半では踊らない。むしろ踊るのはさきほども述べたが黒い死神とおぼしき男だ。
 舞台では回避されてしまう決闘が起こるはず場面の前には、花嫁に髪留めをたかっていた少女がこの死神の虜にされるという象徴的な場面が挿入される。これは、おそらく女たちがその宿命(=死神)を受け入れ、男の血を吸ってきた土地にしばられて生きることを暗示しているだろう。しかも、それまで片足を引きずっていた少女が、このときばかりはふつうに歩き、あとの場面ではことの顛末を知らないから、この受け入れは無意識的なものだといってよい。
 そして、はずされた決闘の場面の代わって、最後は花婿とレオナルドを失って喪に服す女たちが舞台に残される。舞台の最初も花婿の母から始まっていた。こうして、男たち以上に血塗られた土地の運命に翻弄され、そこから逃れられない女たちの姿が舞台上で焦点を結ぶ。しかし、それを見ながら、「大河ドラマじゃあるまいし」とも思ってしまうのだ(フェミニストならもっとひどいことを言うんじゃないか?)。そんなわけで、話が進めば進むほど舞台と自分のあいだの距離をはかれなくなり、終了後の盛大な拍手にいささか呆然としながら、会場を後にすることになった。
 ちなみに、「血の婚礼」はアントニオ・ガデスカルロス・サウラと組んで舞台を映画化している。これ、見ているはずなのだが、どんなのだったか覚えていない。このコンビの作品いくつか見ているので、どれがどれだったかよく分からなくなっている。ちょっと調べてみたら、リハーサルの風景から収録したドキュメンタリー的な作品とあった。それで、ちょっと思い出した。その中途半端な記憶でもって語るなら、このセミ・ドキュメタリーな手法は、このいささかベタな作品をストレートに映画化する困惑を処理する一つのやり方ではなかったかと思えてくる。そうすると、やっぱり、これって---と思ってしまうのだ。