本多勝一『子どもたちの復讐』

 先週から本多勝一『子供たちの復讐』を読んでいる。いまさら本勝なんて向きもあるかもしれないが、なぜ今頃この本をあえて読むのかというところまで踏み込めば、分かる人には分かってもらえるかもしれない。昨年あたりから親殺しの急増が問題になっており、最近になってまた起こった。で、ぼちぼちこうした傾向を説明する議論も出始めているようだが、まだそれなりに納得いくような説明が与えられているようにも思えない。で、よく分からないときには、事件そのものをあれこれするよりも、昔のよく似た話がどんな感じだったのか見てみるにかぎる。
 本多が取り上げているのは「開成高校生殺人事件」(1977年)と「祖母殺し高校生自殺事件」(1979年)なので、事件そのものは典型的な親殺しとは言えない。それでも、1970年代後半になって急増した不登校、いじめ、家庭内暴力といった新しい学校問題・青年問題の行き着く先として親殺しが見すえられており、その背景にあるのは何よりも受験戦争だ。
 で、読んでみると不思議な感慨に浸された。事件を読み解くなかで考察が焦点を結ぶのは、この事件が社会を象徴するものなのかどうかということであり、もちろん、読み解く本多は現代社会を象徴するものとして事件を共感的に語る。しかも、その語り口はきわめて「疎外論」的だ。だが、いまではこの手の事件を共感的に語ることがどれほど難しくなってしまったことか!また、「罪悪感が感じられない」等々今でも言われそうな指摘が散見される一方、受験戦争を問題視する口調は現在との懸隔を感じさせる。この本で明らかにされる親殺しのメカニズムはおおよそ以下のようなものだと言ってよい*1
 父親とうまく関係を作れない母親が、その分だけ過剰に子どもに愛情をふりそそぐ。こうした環境におかれた子どもは、たいていおとなしいよい子に育つが、甘やかされて育ってきた分だけ耐性がない。ママは、幼い頃は何かと手をかけ、過剰に世話をやいていたのが、子どもが進学の年頃になると急に「教育ママ」へと変貌をとげる。子どもはよい子としてママの期待に応えようとするのだが、中2あたりになると次第にそれがめいっぱいになってしんどくなるし、また、次第にママの期待の身勝手さも見えてくる。だったら、ママから離れていけばよいのだが、過剰に母親に依存して育った子どもにはママから離れることにも不安がある。離れたいのに離れられない。このとき、ママに逆らいながらママに依存する格好のやり口が「家庭内暴力」だ。また、ママの期待から脱落していく自分を主観的に合理化するために採用されるのが、本来なら自分がのるはずだった「エリート意識」を逆手にとることだ。自分はスゴいんだから他のヤツと同じにすることなんてない、と。しかし、いつまでもこれを通すのは無理がある。いきづまって矛盾の最終解決法に選ばれるのが親殺しであり自殺だ。
 本多は、こうした事件が「実質的には無理心中事件」だと語り、受験戦争を強いる社会と家庭の犠牲者として子どもを位置づける。社会や家庭にたいする「子どもたちの復讐」が始まったというわけだ。受験戦争のような社会に共有された枠組みを所与にすれば、この手の事件に共感を寄せることはわりと容易なことだったように思われるし、また、当時がモーレツ・サラリーマンの時代であったことを鑑みれば、子どもに大人と同じ競争社会の苦しさを見出すこともできたかもしれない*2。じゃあ、一体何が変わって、何が変わらなかったのだろうか?
 まず、一方の問題点とされる家庭だが、分析には常に「父親不在」といういまとなっては懐かしくもある言葉がつきまとう。当時と比べれば現在は家庭志向が強まっており、多くの父親は家庭を顧みるようになっている*3。そうした意味では「父親不在」はかつてほどではないと言えるのかもしれない。しかし、この本で言われている「父親不在」とは、単純に父親が家庭に場所を占めているかどうかという問題ではない。ぶつかってくる子どもに「びしっとモノを言って」しっかり向き合うことができるような古典的な〈父親〉がいなくなったという『父性の復権』的な話である。それでいけば、家庭を顧みる父親はむしろ「二人目のママ」なっている方が実情に近いわけで、そうした意味では、「父親不在」はより深刻化しているといってよいかもしれない。
 さらに、もう一方の母親たちだが、こちらはどうか?ちなみに、この本に収録されている斎藤茂男の一文には次のような希望的観測が書かれていた。

「夫と子どもに献身し、そのかわりに夫は職業生活で存分に自己実現させることによって社会的・経済的に上位の位置を占めるようになってもらい、また子どもにも一流大学から一流会社へというように成長してもらう---という具合に、自分以外の人間に夢を仮託して間接自己実現をはかる妻・母の立場から、脱けだそうとしている」(167頁)。

だが、現実はそうはいかなかったようだ。子どもへの過剰な配慮は、商売もからんで「公園デビュー」「習い事」「お受験」---と、ちょっとよい家庭ではどこまでも逆コースに進んでいきそうな気配だ。個人的にも、大学の「父母会」(!)にやってくるお母様方のおつきあいをさせていただいて、嫌というほど子ども依存を思い知らされるている。「うちの子どもは大丈夫でしょうか?」。とすれば、本多が確認している家庭の趨勢はのきなみひどくなっていると言ってよさそうだ。
 他方で、家庭をとりまく社会環境の方だが、当時はいわゆる「よい大学に入って、よい会社に入って」という「受験戦争」の時代である。こちらは以前ほど苛酷ではないように感じられるのだが、近年の事件の少なからずも受験・教育問題がらみのように見える。これをどう考えればいいだろうか?意外に感じられるかもしれないが、いまから振り返ってみると、この受験戦争とは自分で目的を定められないまま他人に依存して生きていかなければならない人たちのための最期の砦だったように思われて仕方がない。どいういうことか?
 本多の本を読み進めると、「経済市場主義」下の「文部省が作った」「単一の」「大人の」「一本のモノサシ」価値観の犠牲になって式の懐かしい紋切り型が続くのだが、たとえ押しつけという評価が正しかったにしても、さらに、こうした物言いができるということそれ自体までもが考察の対象にされてよい。どういうことかといえば、大学進学を考える親子は、「受験戦争」という枠組みを使って、自分たちの行動を説明したり正当化することができる。親がなぜ「勉強しろ」と言ってくるのか、なぜ自分が勉強しなければならないのかも、「受験戦争」を引き合いにすれば不条理さはつきまとうにもせよ一応説明がついてしまう。つまり、「受験戦争」は自分の行動を意味づけるために利用できる意味論的資源でもあったのだ。しかも、こうした意味論的資源を採用することで、とりあえず自分がどう生きればいいのかさしてまじめに考えなくてもすむようになる。親としても子どもとしても、ある意味これ以上楽なことはない。受験体制を乗り切ることだけを考えればよかったのだから。
 その後に起こったことは、こうした自分たちの行動(受験等)を説明する社会的な枠組み・意味論的資源の解体だったのだといってよい。高度消費社会化の進展と不況をきっかけとした構造改革の進展は、一部の人たちが賞揚してきたし、いまも賞揚している「個人の多様性」や「個性の尊重」といった価値観を少なくともたてまえとしては否定できないものにした。でも、それは進むべきルートを自分たちで考えなければならなくなったということでもある。しかも、自由で競争的な社会で有利な立場を占めようとすれば、将来を左右しかねない文化資本をあらかじめどれだけ身につけておくかが勝負になる。だから、英才教育にも拍車がかかる。
 その結果、広がっていったのは「公園デビュー」「お受験」等々、あるいは「ご近所のどこそこは」といった親たちの教育マニュアル探しであり、それが意味するのは、子どもにいつごろからどのような教育を受けさせるかをますます親が個人的な趣味や価値観から左右できるようになったということだ。しかし、こうして決まる望ましい教育経路は、「受験戦争」が提供した意味づけとは違って、子どもにも腑に落ちるようなかたちで意味づけられているとは限らない。そもそも、もう文科省を悪者にはできない。とするなら、みんなが同じことをすればいい「受験戦争」は、かえって、こうした親の恣意から子どもを守る一面があったように思われてくるのだ*4
 親の選択に大幅に依存した教育経路の決定は、それが度を超せば、「受験戦争」時代のそれよりも子どもにとってよほど苛酷で理不尽かつ不条理なものとして映りやすいに違いない。すでに確認したように、受験戦争時代なら、親が子どもに勉強させる理由はそれなりに明確だった。社会全体がそのような方向で動いていたからだ。それはときとして理不尽であったかもしれないが、親がそうした理不尽な価値観を仕向ける理由を理解するのもさして難しいことではなかったし、だからまた、その分だけそこに親の愛を認めるのも容易だったかもしれない。
 しかし、「受験戦争」のような社会的に共有された枠組みがなくなってしまえば、子どもの教育経路は親の教育方針から決まることになる。つまり、押しつけられる苦痛の源泉はストレートに親に結びついてくる。自分がなんでそんなことをしなくちゃならないのかを考えると、それを求めている親がいる。しかも、その方針は常に理にかなったものとはかぎらないし、周囲を見れば友だちがみんな同じことをしているわけでもない。となれば、「ボクはなぜ---」という疑念が生まれやすくなることはみやすい。
 そのうえ、親が自由に教育目的を決めることができるならば、オマケに我が子の具体的な比較対象も好きなように決めやすくなるだろう。「どこそこの誰々ちゃんを見なさい」。この手の理不尽なお小言に憤懣やるかたない思いを抱いた子ども時代の記憶を持つ人は少なくないのではないか。なにせ、こうした叱り方は比較対象を親が勝手に決められるのだから。「なんでいつも藤田君なわけ?」。そのうえ、具体的な子どもが比較対象に選ばれるときに比べられるのは成績ばかりではない。その人物のすべてだ。素行のすべてが比較されかねないなんてたまったもんじゃない。受験戦争にあっては、競争相手はまず何よりも見えない全国の受験生だったわけだが、こうした背景が希薄化して、それだけ濃密に比較できる条件が整ってくる。
 ところで、いちばん比較対象にされやすいのはいちばん身近なところにいる兄弟姉妹じゃないだろうか。親殺しやそれに類する事件の少なからずで兄弟姉妹がからんでいるように見えるのはおそらく偶然ではない。だが、言うまでもなく、兄弟姉妹だからといって比べられるような似たような人生をおくらなければならないわけじゃない。
 親の子どもへの愛情は不信と裏腹だ。過剰に子どもの「ためを思って」何かをするとき、軽んじられているのは子ども自身の考え方だ。愛が子どもの自由を過剰に束縛するとき、愛は逆のものへと転化する。親がなぜその経路を選んだのかが子どもに理解できないとすれば、それはなおさらのことだろう。この点でも、斎藤茂男はすでにこう書いていた。

「もともと親が子どもに期待をかけるのは当然であり、それ自体悪いことではない。だが、その期待の内容が、子どもの人間的な成長を心から願うものではなくて、その夢を現実のものとすることによって、実は母親自身が自分の誇りを満足させることができ、親類や交際範囲の夫人たちの間で”賢母”として面目をほどこすことができる−というようなことが、願望の赤裸な正体である場合が多い」(162頁)。

 ボクがこうして本多の本を読みながら確認してきたのは、現在、子どもは以前よりもさらに耐性が弱くなり、しかも、おかれている状況は当時よりしんどくなっているのかもしれないということだ。もちろん、よく分からないところで書いているからあくまでも推測にとどまる。最初は、こうした事件を横目に受験戦争はボクらの頃ほど大変というわけでもなかろうにと思っていたのだが、そこだけを見て評価するのは間違っているのかもしれない。子どもがますます親の自由にされかねない状況は、「子どもの道具化」を促進し、それだけ子どもを理不尽かつ不条理な環境におきやすくする、という道筋が考えられそうだからだ。これは逆に過剰にかまってもらえずにいる子どもが増えているということからも指摘できる。
 不条理かつ理不尽な環境にさらされるとき、われわれは不条理かつ理不尽な妄想をいだきやすい。だって、何がまともなことだか分からなくなっているのだから。かつて本多の紹介する子どもたちが自分たちの「復讐」を正当化するために持ち出してきた「エリート意識」は、たとえそれがどれだけゆがんでいようとも、近年の不可解な事件と比べれば、まだそれなりに理解できるものではあった。当時の事件でも、子どもたちの「罪悪感の欠如」が指摘されていたわけだが、親殺しの実態が心中であったのなら、まだそこに罪悪感を見ることもできた。
 しかし、いまではそうした共感を抱くことはますます難しくなっている。なぜなら、おそらく、子どものおかれている理不尽で不条理な環境は、「受験戦争」といった言葉で社会的に統一して語ることのできるものではなくなっており、その分だけいっそう不条理さを増しているからだ。そうした個人化した不条理を埋めてくれる道具になるのは、多分ゲームだとか音楽だとかいった、その子たちの身近なところに転がっているアイテムなのだろう。しかし、そうしたアイテムに過剰にこだわるべきではない。むしろ、問題にすべきなのは、その子の気質的な問題をおくなら、不条理な妄想を抱く子どもたちが、それに見合うだけの過剰に不条理な環境にさらされてきたのかもしれないということの方なのだ。
 考えてみると、そもそもそこまでして子どもの将来にこだわらなければならないのが何故かよく分からなくなってくる。昔と違って、子どもが老後の面倒をみてくれるなんてまずあてにできないことはわかりきっているはずだ。それがメディアや周囲から煽られての不安や見得でしかなかいのであれば、頭を冷やすためにも、子どもに投資することが自分にとって得なのか損なのかを少しぐらい考えてみてもいいのではないか。また、子どもの将来を決める自由をどこまで親が持っているのかを少し真面目に考えてみてもいいんじゃないだろうか?

子どもたちの復讐 (本多勝一集)

子どもたちの復讐 (本多勝一集)

*1:たとえば、アメリカと比べれば、日本の親殺しでは、父親殺しだけでなく、母親殺しも目立つらしいのだが、こうした傾向はこの手のモデルを見るだけでも納得がいくはず。

*2:本多は、全集では原本の文章の他に、宮崎勤事件やオウム事件の文章を載せているのだが、これも同一線上にある事件として見られる。だが、仮にそうだとしても、事件の受け止め方がかなり変わってしまったことは否めないように思われる。

*3:個人的に聞くところによれば、ウィークデイは仕事づけのうえ週末は家庭行事でそうとう大変なようです

*4:報告されるデータを信用するならばこの間一貫して子どもの自己評価やモーチヴェーションは下がっている。