社会的な身体

 ふつうにメディア論の本でお勉強になります。「人々はコミュニケーションへの欲望を持つがゆえに、身体を拡張し、その形式を組み替えてきた。コミュニケーションは常に「欲望的(物語的・意味的)」であると同時に「欲求的(ゲーム的)」なものとして重ね描きされる。そのような「形式」と「内容」の区別そのものが、その都度変わるため、あたかも欲求の前景化が起こり「いまこそ」ある歴史が終焉したのだという感慨をもたらすのだろう。だが、実際にはそうした形で「歴史が完成する」ことはありえない。欲望と身体がそうはさせないからだ。
 アーキテクチャーの肥大化は、現在のところ、コミュニケーション領域の肥大化と並んで生じている。そこでは、規律の機能は決して失われない。むしろ、「環境管理型」技術は、個人に対してきわめて古典的な「人間らしさ」を要求するために導入され、「規律訓練」の代替としてのみでなく、「補完」として機能しているかをチャックすると同時に、集合的な道徳感情の共有のために用いられている」(98頁)。
 素朴に感じるのはメディア論ってどうしてみんな似たようなスタイルになるのだろう。ちなみに、上記の引用から本書全体として未定義になっていると思われる重要タームを推測してみなさい。たとえば、社会的じゃない身体ってどんなものなのでしょう?
 

社会的な身体~振る舞い・運動・お笑い・ゲーム (講談社現代新書)

社会的な身体~振る舞い・運動・お笑い・ゲーム (講談社現代新書)