実践の中のジェンダー

 今日はこれのおさらいです。しかし、読みなおしてみて思ったんだけど、ルーマンは知覚レベルの「焦点の定まらない相互作用」と「焦点の定まった相互作用」の違いというのをあまり重視していないな。むしろ、「知覚」ないし「知覚の知覚」と「観察可能なコミュニケーション」ないしは行為との区別が基本になっている。ただ、ゴッフマンもこの二つが似たような手段を用いるということは認めている。
 ちなみに、ルーマンは「知覚の知覚」によるシステム形成の可能性は事例をあげて認めています。知覚と観察可能なコミュニケーション、ならびに関連についても説明されていると思います。知覚はつねに過剰なものとして観察可能なコミュニケーションの内部環境をなしており、それが参照可能であることにより観察可能なコミュニケーションを制御することができます。「システム形成の力能」とは時間的な持続性能のことでもありますが、そのメルクは構造選択があるかどうかです。ただ、私にも、ルーマンの議論から見ても「焦点の定まらない相互作用」に構造がないとは、思えません。
 中断/再開については、相互作用システムに決定的な手段がないと述べられています。つまり、きちんと構造化できない、構造化できたら組織になってしまいます。一方で、「相互作用システムは通常、その統一性の反省なしにやっている」とも述べられています。つまり、相互作用システムの同一性判断というのはシステムの構成要件ではないのですね。その判断が必要になるとき必要になる。ですから、システムの同一性を確認する話は主題レベルの話にとどまり、当の相互作用システムが作動するための構造を提供はしても、中断される前のシステムと後のシステムの連続性を構造化する力能を持つ必要はないのではないかと思います。だから、この論点は「再帰」の部分でとりあげられているのではないかと。とりあえず、メモ。

実践の中のジェンダー?法システムの社会学的記述

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