喪とメランコリー

 この有名な論文、いまは文庫で読めるから便利ですな。ただ、鬱病とメランコリーは一応区別しておいた方がいいんじゃないかな。フロイトはこの論文で喪(悲哀)とメランコリーを比較し、この違いをナルシシズムから説明する。うつ病ナルシシズムの結びつきというのはなんだか分かる感じがしますな。
 喪(悲哀)もメランコリー(うつ)も、愛する人やそれに対応する抽象的な概念を失った場合に生じるという点では共通している。他方、メランコリーの特徴は、深刻な苦痛に貫かれた不機嫌さ、外界への関心の喪失、愛する能力の喪失、あらゆる行動の抑止と「自己感情の低下」であるとされ、喪では、この自責と自己への軽蔑として表現され、妄想的な自己処罰を求めるまでにいたる「自己感情の低下」が見られない。
 喪は対象喪失の過程に起こるものであり、リビドーの備給先が対象から解放されていく過程にある。他方、メランコリーでは意識されない対象喪失にかかわる。「患者はだれを喪ったかは分かっているのだが、自分が何を喪失したのかを理解していないことがあるからである」(105頁)。また、喪では後悔や自責の念にかられれば恥辱の感情を抱くのだが、メランコリーではこの恥の感情が欠如している。つまりは、自分をさらけだしてしまう。
 こうして対象喪失によるはずのメランコリー患者では自己卑下ひいては自己喪失に苦しんでいることになる。これをどう考えればよいか。フロイトによれば、メランコリーの患者では自我が分裂しており、自我の一部が批判的な審級(「良心」、のちの「超自我」と考えてよいだろう)として、別の部分を批判し対立している。のみならず、批判される自己は、自己の人格にあてはまるというよりは喪失した対象に当てはまることがわかるという(これは投影性同一視と考えてよいかもしれない)。つまり、批判される自我とは対象のことでもあるわけだ。
 フロイトはさらにこう説明する。患者は対象選択を行い、特定の人物にリビドーを固着させるが、それがゆらいだときリビドーが自己に引き戻され、放棄した対象と自我を同一化するために使われる。こうして「対象の喪失が自我の喪失に姿を変え、愛していた対象と自我との葛藤が、自我への批判と、同一化によって変貌した自我とのあいだの分裂となるのである」(113頁)。
 このようなプロセスの発生については、愛する対象へリビドーが激しく固着していることが必要であるが、一方で、リビドーの備給の放棄はあまり抵抗なしに行われるはずだという。これは、最初の対象選択がナルシシズムをもとに行われたものであり、対象へのリビドー備給の困難が発生するとナルシシズムに退行するからである(フロイトはヒステリーにおけるナルシシズム的同一化では対象へのリビドーの備給が残されているという)。ということは、もともと対象から愛されたくても対象をさして愛していなかったということになるのかな。
 こうしてメランコリー患者は自己処罰をつうじてもともとの対象に復讐することができるのである(人格障害なんかだと自他ともに実際に攻撃が向けられることにもなるし、対象関係論との相応が気になる)。つまり、対象にも自らにもサディズムと憎悪の傾向を示すことになる。自殺願望もここから説明される。不眠症はリビドーが解放されていないからである。躁病は自我へリビドーが退行したまま、対象から解放されているのだが、患者自身は対象から解放されていることを知らない状態として説明されている。

ちなみに、このサイトは分かりやすいし。その後のフロイトが躁病をどう論じたかも言及されている。
http://www21.ocn.ne.jp/~sfreud/sem/tyukyu/tyukyu3.htm

人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス (光文社古典新訳文庫)

人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス (光文社古典新訳文庫)