日本倫理思想史

 昨日の続き。しかし、読めば読むほど和辻読解の面白さといかがわしさが同居してくるな。和辻は倫理思想を冒頭でこう定義している。「すなわち倫理思想とは、人間存在の理法たる倫理が、その実現の過程たる特定の社会構造を媒介として、そこにおいて規定せられた特殊の仕方としてロゴス的に自覚せられたものなのである」(20頁)といいながら、「ここでは倫理思想は「賢者の教え」という形を取ってくる。---。すなわち賢者は、人間存在を支配する理法に、根本の倫理に、触れた人なのである。しかし彼は、その理法への理論的探究に人々を引き入れようとしたのではなく、ただ自分の洞察した理法を「教え」として人々に与えたのであった」(21頁)。ここにも個と全体の空の弁証法が働くことになるであろう。常に全体とは個の実践連関を代表する鏡なのである。

 つまりは、賢人とは自覚を促す人である。しかし、しばしば、民衆意識(ないしはその自覚)は、そうした賢人のなんらかの表現の反映(あるいは反映の反映)として、把捉される。この代行主義につまづく一方、この代表する側と代表され有る側の循環は和辻が作ってるモノじゃないかという疑念がぬぐえない。ここでは賢人とは関係ないが、ひっかかる箇所を一つあげておこう。
 和辻は平安期の伊勢神道の成立を「皇位の伝統に対する尊崇の感情からは独立したいた」(149頁)といいながら、戦国期の「全国の民衆の間には、伊勢神宮を中心とする明らかな統一が自覚された。それは神話時代以来の伝統を背負った国民的統一の意識である。たとい支配階級の側において統一が失われ、政治的にはそれぞれの大名の領国が独立のようになっていたとしても、支配される民衆の側では日本は一つであった」(36頁)としている。しかし、実際には、逆なのだろうか、異なる領国を生き、国民的統一という意識を離れても、伊勢神宮崇拝が成立するようになったということではなかろうか。これはメッカ巡礼あたりから考えてもおかしなことではない。
日本倫理思想史(二) (岩波文庫)

日本倫理思想史(二) (岩波文庫)