丁度よくオギュスタン・ベルクの本を発見。議論上、和辻への評価は曖昧だが、この議論の展開は明らかに和辻に対する批判に成っていると思う。そもそも、風土ではないが、風景について語れる立場こそ特権的な立場にあるものだと*1。これは面白い。
「あらゆる人々にとって元風景が存在し、そこに根づいている原型的動機があらゆる文化に表現されているにもかかわらず、本来の風景という観念はさまざまな図式の緊密に依存していて、その図式はある文化、ある社会層に固有のもので、他のところには存在しないという性質をもつ。この風景の観念は社会における支配的な趣味嗜好の移り変わりに密接に結びついている。そして一般的にはエリート階層が自分たちの風景の概念を押しつけるものである(49頁)。
たとえば、「縄文人にとって、野生の空間というものはそれ自体としては存在しなかった」(86頁)。「人間の手の加わった空間に先だって野生の空間が存在したのではなく、事実はむしろ逆なのである」(87頁)。
あるいは、「農民は原則として風景は見ない」(116頁)
。「なぜならすでに見たように、風景としての田園風景を作ったのは農民ではないからである。農民が作るのは、ある一つの環境、つまり元風景にすぎない」(120頁)。さらに、
野生の自然の風景や農村風景とまったく同様に、都市風景もわれわれをとりまく客観的な環境との関連においてのみ存在するのではなく、われわれが環境に対してもっている主観的な表象とのかかわりにおいても存在する。したがってわれわれが都市風景を観賞するときも、また当然都市計画者が開発を行うときも、都市や措置性というものについての多少なりとも抽象的な概念に影響を受けることになる。一方こうした観念自体もわれわれの知覚する風景に影響される。
となると、われわれがまなざす風景はすでに半ば身体同様イマジナリーなものを含んでいることになる。実際、オギュスタン・ベルクは、「視線による支配」と「魔術による支配」というところから話を説き起こしているのであった。
日本の風景・西欧の景観 そして造景の時代 (講談社現代新書)
- 作者: オギュスタン・ベルク,篠田勝英
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1990/06/12
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*1:でも、そう言える人は誰?以下の引用で「元風景」云々と言える人はどこにいるのだろう?ただ、これは議論の組み立てで何とかなる話だとは思う