やはり、和辻にとって「国家」ないしはそれに類する語彙というのは、酒井直樹が指摘するようにマジック・タームだな。和辻のいう「国家」って何のことだかさっぱりイメージがつかない。でも、風土の話も結局のところ国家ないし国民に収斂する。
思うに、当時の戸坂による天皇制擁護という批判が当たっているという以上に、植民地を抱えた「大日本帝国」の実状を無視して国民国家というものに無自覚にのっかって話を始めているから、和辻の立場は戦後もさして変わっていないといった議論が出てくるのではないかな*1。むしろ、当時、和辻が問題にしなかったことの方が大きすぎる。
和辻によれば日本人の存在の仕方は家ということに収斂する。前述の点を脇におけば、分からぬ話でもないがなぜ?
「家」は家族の全体性を意味する。それは家長において代表せられるが、しかし家長をも家長たらしめる全体性であって、逆に家長の恣意により存在せしめられるのではない。特に「家」の本質的特徴をなすものは、この全体性が歴史的に把捉されているていう点である。現在の家族はこの歴史的な「家」を担っているのであり、従って過去未来にわたる「家」の全体性に対して責任を負わねばならぬ。「家名」は家長をも犠牲にしうる(170頁)。
ところが、他方で、和辻はこうもいうのである。まさに、戸坂がやり玉に挙げそうな一節だが。
にもかかわらず我々は、家のアナロジーによって国民の全体性を自覚しようとする忠孝一致の主張に十分の歴史的意義を認める。それはまさに日本人がその特殊な存在の仕方を通じて人間の全体性を把捉する特殊な仕方にほかならぬのである。そうしてこのような特殊な仕方が可能であったということは、日本の国民の特殊性が家としての存在の仕方に最もよく現れているとともに、国民としての存在の仕方そのものに同様な特殊性の存することを示唆しているのである(178頁)。
でも、こうも述べているんだよな。川島武宜とか思い出しそう。
しかし日本の民衆があたかもその公園を荒らすと時の態度に示しているように、公共的なるものを「よそもの」として感じていること、従って経済制度の変革というごとき公共的な問題に衷心よりの関心を持たないこと、関心はただその「家」の内部の生活をより豊富にし得ることにのみかかっているのであることは、ここに明らかに示されていると思う(202頁)。
というわけで、和辻は家と政体の連続性を指摘しながら、他方で家と公共ないしは政治への無関心という相容れない指摘を「風土」で確認している。こうなると、和辻の国家へ収斂する「倫理学」の含意はどうなるのだろう?和辻は倫理の根本的な性格をときおこしながら、あわせてそれを当為として論じていないだろうか?そうすると、思いの他、丸山眞男と似たようなことをしていることになってしまう。
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