「イギリス人は選挙のときだけ自由になる」

 と、かつてルソーは言ったわけだが、選挙になると投票しようという選管のキャンペーンが始まり、しばしば「ジャリタレ」*1を起用した「投票しよう」という呼びかけが行われる*2。ネットが普及してから以前よりもそれが増えて目障り。また、それと同調するかのように「大切な一票だから」とか言って、選挙のときだけ有権者意識が高まる人が出てくる。有り体にいって私はこういう人が大嫌いである。だったら、なぜふだんは政治について語らないのだろう。また、若者の投票率や政治意識の低さが指摘されているが、それが「ジャリタレ」を使ったキャンペーンでなんとかなると思うのなら勘違いも甚だしいと思う。
 私がこんなことを言いたくなるのは、私が学生を相手にした商売をしているからである。今回の選挙は大半の学生にとって最初の国政選挙である。はじめての国政選挙ということで緊張感と責任感をもって投票してもらいたいとか言いたいところだが、残念ながら話はそれ以前にある。まず、大半の学生にとって、誰に投票すればよいか分からないし(今回はほんとに難しい)、そもそも誰に投票するかを決めるためにどんなことを参照すればよいかもよく分かっていないのが実情である。つまり、ろくな政治教育もせずに、選挙権だけ与えておいて、「投票しよう」とか呼びけているのが実情なのであり、これはあまりに愚かなことではあるまいか?若年層の投票率が低く政治意識も低いというのは、単にそれまでまともに政治について考える機会がほとんどなかったからではないだろうか(ついでに言えば、これは若年層だけに当てはまる話なのだろうか。たとえば、前回は自民にお仕置き。今回は民主にお仕置きとか考えてたりしない)?だったら、いくら「ジャリタレ」使ってキャンペーンをうっても若年層の投票率があがるわけがない。
 そうなると必要なのはやはり政治教育、といっても高校でディベートとか何かやるというだけの話でなく、そもそも大人が少々おかしくても政治について語ることができなければ、下の世代に政治について考える機会など作れやしないだろう。そういう意味では、若年層にツケを回しているのは借金だけでなく、政治を語る言葉の欠如でもあるのだ。で、ますます、若年層を代表する政治家を生み出せないでいる。それを若年層の政治意識に帰するならここにも隠された自己責任論があるな。考えるべきことは、投票率以上に、われわれ自身がどれだけ政治について語る言葉を持てるかなのだと思う。今回仕方がないので私は消去法でいきます。なお、北朝鮮や中国の挑発にまどわされないように。
 

政治における合理主義

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民主教育論―民主主義社会における教育と政治

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レオニーの選択―18歳少女の“政治”への旅立ち

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*1:http://ja.wikipedia.org/wiki/大宅壮一

*2:ちなみに、投票しない人には文句をいう権利はないという類の物言いは、選挙権と言論の自由を混同しています。