人格

 テイラーといえばこれもあったなということで読んでみたら、この論文とても面白い。
「自分の感情の一層の意識化が自分の感じていることを変える、ということがわれわれにしばしば生じる」。確かにそのとおりだ。「それを理解したり気づいたりするというしかたはわれわれが何を感じるかにとって構成的なのである」(471頁)。

それゆえ、何を感じるかということにとってわれわれの理解が構成的であるということは、正しいものと間違ったものがある、あるいはここには少なくともより適切なものとあまり適切でないものがあるということを否定しない。このことによって意味されるのは、虚偽の、あるいは真正ではない、あるいは混乱した、あるいは自己欺瞞的な感情がありうる、ということである(472頁)。

 さらに、こうした感情だが、「私が恥ずかしさを感じるのは、他人の面前で自分が卑しい人間とか価値のない人間だと露わになるときである」(475頁)。

換言すれば、人格的な行為主体以外に共有されない、人格のための意義として恥が示しているのは、両者の差異が人間の偉大なる気づきすなわち自己認識だけに存するとはいえないということなのである。--。むしろ、人間が気づいている意義というのは、新しい何か、人格に対してはじめて意義でありえるような何かなのである。というのは、その意義は、自己を認識している存在、さらには、自分の人格の本性に気づいている他者と共有している存在にだけ適用される標準にかかわるものだからである(476頁)。

 で、こうした感情の基礎には価値があり、それが人格の概念に含まれていると。さらに、言語の意義。「言語が創造するのは、公的空間とでも呼べるもの、あるいは、われわれが共に世界を概観する際の共通の有利な地点とでもいったものなのである」(492頁)。この話、ハイデガーが意識されているのかしら。
 

人というカテゴリー (文化人類学叢書)

人というカテゴリー (文化人類学叢書)