日常世界の自己呈示

 ゴッフマンのイメージについては、この本の内容が大きく影響しているように思われるが、いま改めて読むと、『相互行為儀礼』で簡単にしか論じられていなかった問題系が主題的に取り扱われたものだと考えた方がよいし、この延長上に「役割距離」の話がくるという方向で読むのが生産的に思える。
 どういうことかといえば、出会いのなかでは各人は各人の言動が知覚されていることを知覚できるから、再帰的に、相手の知覚を想定したうえで自分の言動をコントロールするのは、意識されようと意識されまいと、ごく自然なことである。つまり、そこには「演技」がある。たとえば、ゴッフマン自身もパフォーマンスが常に行われていることを指摘している(81/87頁)。これは一種の適応的選好形成である。
 そして、これはより広い社会とも結びついてくる個人に帰属される何らかの属性を出会いのなかにどのように埋め込むかという問題に結びついている。個人は、居合わせる誰かとの関係として何者かとなり、その何者かとして追求すべき活動を行う。だから、出会いのなかの振る舞いで自分が何者であるかという自己定義を達成していかなければならない。言い換えるなら、たとえ、誰かが何者かであるということが、一定の状況から独立として決まるのだとしても、個人がそのような者であるということは、その都度の状況に相対的である。
 ところが、ゴッフマンは、この本で、最初はこの点を状況内の問題として扱っていくのだが、次第に他の状況との結びつきとの関連で議論をするようになる。相互行為状況から、話がパフォーマンス・チームへと拡大され、それぞれのチームの構成員が相互行為に参入できる状況をどう整えるかという問題が視野に入れられることになる。もちろん、チームは相互行為に関連して形成される集団である。
 しかし、そうしたチームがあらかじめ共謀して相互行為のなかで「演技」をしていくとしても、そこには相手(オーディエンス)がいる以上、相互行為内でうまく「演じる」ための「演技」の必要性という問題が生じてくる。ところが、実際に、相互行為のなかで、チームの作業がどのように達成されるかという話になると、ゴッフマンはまず相互行為の外側の話から議論を始めてしまい、そちらが主たるものになりがちである。
 そのため、個人が「演技する」場合と、チームが「演技する」という場合では、たしかに、一定の出会いに対して再帰的にかかわるという意味では同じ問題系列に属するのだが、相互行為に準拠するという意味では議論の水準がしばしば異なったものとなってしまっているように思われる(もちろん、個人が「演技」する場合でも、同様の問題が出てくる)。
 この点を考えるなら、「役割距離」のような概念に光があたってくるはずで、たしかに「キャラクターから外れたコミュニケーション」の章にはそのような記述もあるのだが、相互行為内外のチームの問題が並列して論じられているので、二つの違いにどれほど自覚的なのかよくわからないところがある。
 ただし、こうした一定の状況と結びつく別の状況を視野に入れて行動を組織できるのは、一定の状況で自分にどんなことが期待されるかあらじめ予想できるから、つまり、予期的な社会化が生じるからなのだという線は外していないとは思う(当該書結論末尾を参照)。


行為と演技―日常生活における自己呈示 (ゴッフマンの社会学 1)

行為と演技―日常生活における自己呈示 (ゴッフマンの社会学 1)

The Presentation of Self in Everyday Life

The Presentation of Self in Everyday Life