ロナルド・ドーア『誰のための会社にするか』

 ボクにとってドーアという人はとても微妙な立ち位置にいる人なのだが、そうはいっても彼の書くものはとても面白いし、心動かされるものがあるのもまた確かだ。なぜか読みそびれていたこの本を今頃になって出先の合間合間に読了。いくつか気になったところをメモしておくと。

 会社は誰のものかという点で、日本が、この間にヨーロッパと違って、より英米型に近づいていったことを確認する記述。

円高不況から回復した1986-89年の四年間には、安定配当政策をとっていた大企業はほとんど配当額を上げなかった(赤字を出した1986年にもあまり下げなかった)。その変わり、従業員の賃金を相当に上げて、よって、消費の拡大→回復のテンポ加速の効果をもたらした。
 2001-04年の回復期の同じ大企業の数字はおおいに違う。付加価値は11パーセント上がっても、従業員はその恩恵に浴するどうか、年次報酬が5パーセント減っている(この数字は一人当たりで、パート、契約社員は入っているが、派遣労働者・請負労働者が入っていないから、正社員減らし・非正規労働者の代替過程は部分的にしか反映されていない)。1980年代に比べて消費が停滞して、回復のテンポが遅いのはその賃金の動向と無関係でないだろう。
 ところが、配当はどうだろう。付加価値の六倍以上のテンポで上がっている。80年代とももうひとつ違う点は、その配当総額のどの割合が、日本にとどまり、企業と家庭の支出として景気の刺激となったかという点である。80年代に海外へ持っていかれたのは一割たらずだったのが、今、海外投資家の投資が収益の高い企業に偏たっているので、配当額の分け前が、東証株の保有割合(24パーセント)より大きいに違いない。
 しかし、---。疲弊している小企業では-利益率がバブル時の半分にまで回復していない小企業-では役員も収入が減った。ところが、バブル時よりも利益率をあげている大企業では、賃金をカットすると同時に役員が自分たちの報酬を配当上昇とそう替わらない率で引き上げている(151-2頁)。

 日本の企業が「準共同体的企業」たりえた条件として挙げられているのは(173頁)、
1,自分のキャリアが会社の中で展開されることを前提として、会社の運命即自分の運命であるという意識が一般的だったこと
2,経営者/従業員の間で会社の事業の成果を受ける一人一人の分け前が、学歴、勤続年数、能力など、社会的に認められているヒエラルキーの原理に鑑みて、かなり公平に決められているという意識も一般的だったこと

 そして、何故こうした条件が解体していったのかが確認されていくのだが、そのなかで印象的だったのは、オイルショック時の春闘の様子を描いた以下の記述。

労働者代表の姿勢は印象的だった。国民経済の健全性を確保する責任を組合も分かち合っているという前提にたって、かなり洗練されたマクロ経済学的議論を展開していた。これから一年のドル/円為替レートはあどうなるか、それによる輸出の見込みはどうか、インフレ、個人消費、貯蓄、企業投資などはどうか、したがって、インフレを加速する需要過剰を起こさないで、適当な成長率の維持を確保する賃金水準はこうだ---といったような論法だった。この時期の新聞の経済面は、このような、労使双方の主張−および決着として「世間相場」は何パーセントに落ちつくだろうと言う予測−で一杯だった(181頁)。

 で、最後にステークホルダー企業の可能性が模索され、ドイツに見られるような、従業員の経営参加の可能性等が挙げられている。

誰のための会社にするか (岩波新書)

誰のための会社にするか (岩波新書)