サイード自身が語るサイード

 朝の景気づけに。こういう本を読むと元気が出てきてよいですな。
テヘランでロリータを読む』を思い出しながら、

真の問題は、抑圧された人びとがもはや抑圧されなくなったあとに生ずるのだ、と。なぜなら現実に、社会変革の問題、ナショナリズムの問題、開発問題は、抑圧されてきた人びとの責任となるのだから。(129頁)

○○を思い出しながら、

つまり壁にぶちあたって、服従するしか選択肢がないと感ずるときでも−ふつう、ここまでくれば、それで一巻の終わりというのが相場だけれど−、それでもつねに機会はあるものだ、つねになにかほかのことができる機会というのは存在するものだよ。べつの選択肢を構築する機会は、ただ沈黙しつづけることもなく降伏しなくてもよいべつの選択肢は、かならずある。(138頁)

ここで語られているのはなによりも自由の問題ですね。自由であるために必要なことはごく些細なことだけど、これが意外と難しかったりする。読みながら少し前に読んだ田島正樹さんの話を思い出していたのだった。
http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/51004313.html

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