トリアージ

 Nスペでトリアージを取り上げた番組をやっていた。事故等で多数の負傷者がでた場合、医療機関が対応できる人数には限界がある。だから、可能なかぎりたくさんの人を救うために救命の優先順位を決めるのがトリアージだ。そして、あの福知山線の事故は日本で初めて大がかりに行われたトリアージだったということになるらしい。これはそのトリアージを検証する番組。
 見ていて一番印象に残ったのは、やはり救命の見込みがないと診断され黒のタグを付けられた人たちにかかわる部分だった。保存されていたタグを見る限り、黒タグのかなりには診断者の氏名が残されていないし、診断の記録もない。短時間のうちに迅速に多数の患者の救命判断をするのは大変なことだし、処置なしと診断した自分の氏名を残すこと自体がさらなる感情的な負担を要することなのかもしれない。だが、遺族にしてみれば、そのせいでなおさら近親者が見捨てられたのではないかという疑念をぬぐえないことになる。
 誰かの死というのは、単にその人の生物学的な機能停止ということだけではない。それは、同時にその人がとり結んできた様々な関係の束をも破壊することになる。いきなり関係の束から切り離された身近な人にしてみれば、この喪失はそうそう簡単に受け入れられるものとはかぎらない。だから、遺族が近親者の死の場面にまで遡ってその死に寄り添いそれを見届ける、いわば事後的な看取りを願ったとしてもそれはおかしなことではなかろう。
 このとき、トリアージで診断する死と遺族が受けとめる死は必ずしも重なるものではない。だが、この二つをつなぐ役割を果たす場所にいるのもさしあたり診断者なのである。処置なしというのであれば、身近な者に代わって最後を看取ってほしい。しかし、それが許されない状況がある。番組中で、ある医師が述べていたように迅速に診断を続けていくためには感情を殺すしかない。ふだんの医療場面以上に、患者をモノ化する必要があるのだ。死にゆく者であればこそ向けられてほしいまなざしがなかなか向けられない現実がそこにある。