内田樹『下流志向』(講談社 2007)

 内田樹の書くものはどれも面白く(といって、最近のものはそれほど熱心に追っかけているわけではないのだが)、これも面白かったのだが、他方で、最初の頃に比べると、これで話を押し切っちゃっていいのかなと感じることも多くなっている。とりわけ、お説教っぽい話に流れそうなときにそう感じる。この本の感想もそんな感じ。

 本の構成は、3部からなる講演とその質疑。講演は、アタマに学びから逃走する子ども、サイゴに労働から逃走する若者(ニート)が取り上げられる。内田が指摘する問題点は基本的には同じだ。

 たとえば、おしゃべりをしていて注意されても、おしゃべりをしていたこと自体を認めないような子どもがいる。私も経験したことがあるが、あれはどう理解すればよいのだろう。内田の話にのれば、これは一種のだだをこねているということになる。子どもがだだをこねれば、ママはそれを「しょうがないわね」と見逃してくれるかもしれないし、そうでなくても追及が甘くなるかもしれない。だって、そもそも自分の過ちを認められなければ、叱ることの教育的な意味がなくなってしまう。そこで、否認してみせることで、自分のしたことに対するマイナスの評価を値切っているわけだ。ここにあるのは、等価交換の原理だ。いかにも不快そうに授業を受けている子どもや、「勉強って何の役にたつの?」式のことを言う子ども同じ。自分が授業を受ける対価を不快を示す形で購っている、つまり、そのようにふるまうことで学校につきあってやっている、というわけである。

 ニートにあっても問題は同じだ。給料が安かったり、やりがいのある仕事を与えてもらえないからと、すぐに仕事をやめてしまうのは、自分が仕事にコミットすることにひきあうかひきあわないかをすぐに判断しようとするからだ。そして、自分の労働の有用性を確認しようとして、それが確認できないとなると、そこから逃走しようとする。ここにも等価交換の原理が働いている。そして、内田は、この問題を「子どもたちは就学以前に消費主体としてすでに自己を確立している」というところに求めている。

 内田のこのような議論をどう受け止めればよいだろうか?学ぶとはどういうことか、働くとはどういうことかを考えようとするのであれば、内田の指摘はきわめてまっとうなことのように思われる。だから、とても面白い。だが、ここから対処法を考えていこうとすると、子どものカラダやココロを考えるしつけ論で終わってしまいそうだ。しかし、話はそれだけのことではないと思う。そもそも、長い目で学ぶことや働くことを考えていける条件は、当然ながら、目先の心配のいらない裕福な家庭でこそ満たされやすいだろう。つまり、内田の指摘が成り立ちやすい環境を考えることができるのだ。

 かつてのように教育システムがそれなりにうまく就業機会とリンクしていれば、学校教育のラインにどのようにのっていけば、どのような将来を自分が待ち受けているのかある程度展望することができた。そうした展望のもとで教育を受けるとき、いちいち個々の教育サーヴィスの有用性を考えなくても、教育の必要性や善さを素朴に想定して教育を受けていくことができただろう。だが、そうして展望が持てないであれば、より目に見える形で有用性を感じさせなければ、勉強しなくなるのは自然の流れだ。

 また、ニートにしたってそうだ。終身雇用や年功賃金制のもとで将来の展望がある程度もてるなら、現在の労苦も比較的我慢できるかもしれない。しかし、そうした保証がなくなったとき、どうやって現在の労苦を我慢することができるだろうか。しかも、自分たちの上司たちはそうした保証のもとで働いてきた人だったりすれば、ばからしくなっても当然ではなかろうか?

 将来への展望を持つことが難しくなれば難しくなるほど、視野は現在に限定されてくる。しかも、それにつれて主要な関心のポイントが、学ぶということ、働くということそれ自体よりも、学ぶとき、働くときにかかわりあいになる対人関係をどう処理するかに移ってくるだろう。学ぶにしても、働くにしても、少なくともそれを教えたり評価したりする人がいるはずで、かならず誰かとかかわりを持つことになる。そして、当座をしのぐためなら、学んだこと、働いたことの内実を問題にしなくても、自分の作業を評価する対人関係を操作すれば十分だ。

 ボクは、内田が等価交換の原理と呼んでいるものは、むしろ、学習や仕事といった事象次元から対人関係への問題の移し替えなのだと思う。まあ、発達の段階から見れば逆なのだが、それならば、この移行がうまくいっていないということになる。いずれにせよ、この移行は消費の問題とは独立だ。だから、他にも要因を考えていくことができる。以上、それを確認してみたわけだ。

 たしかに、目先の効用だけを考えていたのでは、満足に勉強もできないし、仕事も覚えられないだろう。でも、それをいうだけではただのお説教になりかねない。だが、現在の勉強や仕事ぶりがそれなりの蓋然性をもって将来の自分のプラスにつながると見込めるような社会の仕組みを想定すれば、それほど目先の効用にこだわらなくてすむようになる。実際、従来の日本は比較的そのような仕組みのもとで動いていたと思われるのである*1

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

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日本のメリトクラシー―構造と心性

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*1:この点は、たとえば、竹内洋『日本のメリトクラシー』(東京大学出版会)を参照